実家について


わたしには父が居ない。


中3、もう卒業式を終えて高校生になるのを待つだけの春休みのことだった。


当時ガラケーを買い与えられて半年程度しか経っていなかった私は、まんまとネット依存に嵌っていたのである。


インターネットリテラシーといったものが欠けていた私は、某SNSの呟き機能のようなものに父の悪口を書いていたのである。


その頃の父は仕事を辞めており、

年末に何かの病気で入院していたのだが 転院の話が出たのにも関わらず何故か転院せず家で過ごしていた。



その頃は地獄だった。

後から知った話なのだが、父は病気で立てないし、風呂も入れずトイレは新聞紙を敷いて部屋に垂れ流しの状態だった。


母はというと、義務であるかのように冷凍食品を温めて1日2回程度部屋に届け、

いらないという父の怒号が響き渡っていた。


そんな地獄の中で、元々父親との会話を母親からよく思われていなかったため私は父の病気の名前や、症状を母にも父にも聞くことは出来ず、

ただただ謎に家に籠る父への苛立ちを募らせていた。


そして前述のSNSへの悪口。

その2時間後だった。


母親が何かを叫んでいる声が聞こえた。

最初のうち何回かは何を言っているか全く聞き取れなかった。

数年ぶりに、父親のニックネームのようなものを呼んでいるのだと気づいたのは叫び声が聞こえ始めてから1分程度経過した後だった。


父の部屋から声が聞こえるとようやく気づいた私は、様子を見に行った。

そこには、ベッドに突っ伏す父と、それを揺さぶる母が居た。


私は自分のガラケーで叔母に電話をかけた。

救急車が119番なのはわかっていたはずなのだが、さすがに動揺したのだろう。


父が目覚めない、どうしたらいいか、救急車って何番だったか、などと喚きたてた気がする。


5分程度経って、ようやく救急への電話をかけることが出来た。

住所や、 父が呼吸しているかなどを聞かれた。

さすがに住所は答えることが出来たが呼吸に関してはよく分からなかった。


10分程度して救急車が来て、父の死亡が確認された。

事件性なども無しと言われた。


母が泣いていたかは忘れたが、私が泣かなかったことは覚えている。



その後も流れるようにお通夜やお葬式が過ぎていった。

父の宗教は曹洞宗というあまり聞かない宗教であり、お経がなかなか騒がしかったことは覚えている。

それを聞いた母が、お葬式中に笑いかけてきたのも覚えている。

なかなか薄情である。



そして数年が経ち、物置と化した父の部屋の本棚を何気なく覗くと、

完全自殺マニュアル、完全失踪マニュアルといったもの、

首吊り縄の結び方のような本が置いてあることに気づき、


あぁわたしはこの人の娘なんだな。と20代になって今更そんなことを思ったのであった。